ps:明天改
南北朝~室町期の争と在地主
座勇一
日本中世は争の代であり、中でも、全国的な一政が不在、ないしは能不全を起こしていた期には乱が相次いだ。後の中世史研究では、乱が集中的に生した内乱期を、新力の勃によって既存の秩序が解体される社会の革期と位置づけ、その史的意を高くしてきた。しかし、そこで展されたは、生力の展によって既存の生とのに矛盾が生じ、争が提起されるという唯物史に依したものであり、必ずしも争のを具体的にしたものではなかった。
しかし1980年代以降、争そのものを分析象とする研究角が生まれた。川合康氏による幕府地制の研究(幕府成立史の研究)や、藤木久志氏による一の研究(兵たちのと争の国を行くほか)など、争の成果は、治承·寿永の内乱や国代の争にするイメジを一新した。
南北朝内乱にしても、近年、制や村の武力といった新しい点から研究がめられ、その像が明らかにされてきた。だが、その一方で、かつて心にじられた在地主にとって、南北朝内乱とは何だったのかという大テマはやや埋没してしまった印象を受ける。
このような心の移行は、在地主の提唱(史674の特集を参照)にられるように、中世社会の展を主制の展の史としてじる主制が直されつつある研究状が一因と考えられる。けれども、主制がそのままの形では成り立たないにせよ、主制が重した在地主にとっての南北朝内乱の意味という意じたいは承されるべきではないだろうか。そこで本告では、南北朝内乱という争が、在地主の合形(家、一揆)にどのような影を与えたのか、という“古くて新しい”を改めて考察してみたい。
要するに本告は、争と在地主という二つの新向に学びつつ、独自の主を示そうと志すものである。具体的には、以下の三つのに取りむつもりである。
第一に、南北朝期の在地主の合形を、後期との段差に着目してじることである。近年の在地主研究では、一定や主一揆に代表されるように(小林一岳日本中世の一揆と争、田中大喜中世武士造の研究)、後期から南北朝期への性を重する向がい。なぜなら、こうした研究は、1970年代以降の在地法·在地裁判研究の延上に位置しているからである。日常的な相の解のための法·裁判、恒常的に能する地域支配力としての性格に留意して在地主合の展程を把握しようとすると、南北朝内乱の画期性はごされがちである。後期の段で、外から自己の所·所を守るためのシステムを在地主が有していたことはいないが、南北朝の争という未曾有の非常事を前にして、彼らは来となるを迫られたはずである。小林氏らの研究を踏まえた上で、この相点を明らかにしたい。
第二に、国人一揆研究の刷新である。言うまでもなく当分野の通的解は、今なお俣夫氏の平和体(国法成立史)である。これは、国人一揆を、自力救否定を通じて主争を解するための在地主合とするである。このは国大名、更には近世の一力になる性を地域力たる国人一揆の中に出すという志向性を有する。このため理的要として、国人一揆の上部力の保を必要としない、それとな私的な自立力としての性格が前景化されるのである。
この果、国人一揆研究には、近年活を呈する幕府制研究(高典幸幕府制と御家人制など)の成果が十分にり入れられていない。本告では国人一揆=〈主の一揆〉を平和体ではなく、上部力の争遂行に力する危管理のシステムとして捉えることで、地域社会の平和の持に留まらない一揆のダイナミズムの一端に迫りたい。
第三に、室町期研究との接点を探ることである。最近の室町期研究の展は目ましいものがある。特に争の座からは、吉田司氏による一の研究成果(室町幕府制の造と展)が重要と考える。吉田氏は、一般に室町幕府の安定期とされてきた足利持·教期に勃した地域争と、それにした幕府の制改革をにし、その全体像を解明した。本告の心に引き付けるならば、吉田氏の研究は、いわば室町の争の具体相を提示したものである。だが室町の争のイメジは、南北朝内乱を考察の出点とすることで、より明な像をぶのではないか。15世の前半期は国地域で争が多する一方で畿内近国では室町殿をかすような争が起きなかった期である。南北朝内乱をくぐりけた先に出した、争と平和が背中合わせになった代の特を展望してみたい。